沓掛学荘キャンプ初年度
興望館では、8月1日より2期に分けて各10日間、幼児・保育園児・小学生など126人がキャンプを行なった。また、婦人矯風会青年部の女子専門学校生53人が7日間のキャンプを実施した。
写真は鬱蒼たる木々に埋もれた「森ノ小屋」。
(『興望館セツルメントと吉見静江』)
Beginning
興望館は、1919(大正8)年1月に全国基督教婦人矯風会関東部会外人部会の女性たちによって設立が計画されました。
社会学者ジョン・マール・デビスが、日本のスラム地域として東京市本所区松倉町(現在の墨田区)の悲惨な状況を報告し、
乳幼児の死亡率が非常に高い現実を語ったことがきっかけでした。
この話を聞いた女性たちは、最も困窮している人々を救済しようと決意しました。
当時、松倉町は工場が集中する地域で、労働者の低賃金や地方から移住した家族の貧困が深刻でした。
4月の会合で救済活動を計画し、8つの委員会を組織して準備を開始。
10月には松倉町に土地を借り、翌年には家庭を訪問し活動の説明とともに生活調査を行い、夏には藁屋根の下で保育を開設しました。
10月には4棟が建つ土地を購入し、施設を建設。施設は矯風会の久布白落実によって「興望館」と名づけられました。
なかでもこの活動を支えた中心人物の一人、I・S・ブラックモアは理事や財務担当として活躍。
特に、1923年5月の台風や9月の関東大震災による建物被害を受けた際には、
資金の調達のみならず私財を投じて復興に尽力し、「永遠に称賛されるべき一人」とされています。
Kobokan
興望館のセツルメント活動を定着、発展させた吉見静江。その生い立ち、興望館へ就職した経緯と実績、戦後の日本の児童福祉の一翼を担った姿を概観する。
1897(明治30)年、東京府日暮里に生まれ、幼少時に実母を亡くし叔母夫婦の養女となりました。学生時代から教会に通い、日本女子大学校英文科を卒業後、富山県立女子師範学校で働きました。その後、日本語教師として宣教師たちと出会い、興望館の活動を知り業務主任となるべくニューヨークのスクール・オブ・ソーシャルワークで学びました。
1929(昭和4)年に帰国し、興望館の主任に就任。保育園の運営では、保育だけでなく母親向けの育児相談や地域の保健衛生支援、学童保育の先駆けとなる活動を展開しました。
戦後の1946(昭和21)年には日本社会事業協会理事として孤児支援活動に関与。翌年、厚生省の児童福祉法起草に携わり、保育課長に就任しました。1959(昭和34)年には厚生省を退官し、自身が設立に関与した虚弱児施設「茅ヶ崎学園」の園長として子どもたちと生活を共にしました。1972(昭和47)年、74歳で亡くなるまで、福祉と子ども支援に尽力した生涯でした。
Gakuso
1927(昭和2)年生まれ。1949(昭和24)年、学荘に保母として入職。翌年、病気療養のため退職。1953(昭和28)年、再入職し、その後「さざんか」を担当する。1973(昭和48)年より施設長を三度(みたび)務め、1995(平成7)年退職。
藤野先生の人柄・思想・はたらき
藤野先生は、自由で天真爛漫な性格とユーモアを持ち、子どもたちに対する深い理解と共感を示した人物です。
どんな子どもともよく通じ合い、拒絶する者はほとんどいませんでした。子どもとの関わりを喜びとしていた先生は、助けが必要なときに的確に手を差し伸べ、子どもたちの気持ちに寄り添う姿勢を大切にしました。
その根底にはキリスト教への信頼と、子どもの健全さを信じる価値観がありました。
藤野先生は、施設長を3度務めています。1973(昭和48)年と1979(昭和54)年には短期間のリリーフ的役割を果たし、1986(昭和61)年には本格的に施設運営を担いました。この期間、ジゼラ・コノプカの「収容施設のグループワーク」の考えを基に、子ども中心の支援を展開。日課や当番制を廃止し、個別的な受容を重視した「生活の中の治療」を実践しました。また、施設を小舎制へと移行させ、養護実践に新たな基盤を築き、多くの職員に影響を与えました。
History
昭和15年
沓掛学荘のホール。
左手奥にマントルピース(壁につくりつけた装飾的な暖炉)が見える。
籐の椅子もあり、さながら当時の高級ホテルのロビーの雰囲気が漂う。
本館見取り図
出典:1948(昭和23)年 沓掛学荘増改築工事添付書類
興望館では、8月1日より2期に分けて各10日間、幼児・保育園児・小学生など126人がキャンプを行なった。また、婦人矯風会青年部の女子専門学校生53人が7日間のキャンプを実施した。
写真は鬱蒼たる木々に埋もれた「森ノ小屋」。
(『興望館セツルメントと吉見静江』)
昭和16年
1941(昭和16)年は実施直前に文部省より学生生徒の集団行動を控える旨の通知が出され幼児8人のみで実施。
翌年は保育園34人、国民学校生徒63人に分かれ、1943(昭和18)年は虚弱児を対象として19人で実施。
写真は1942(昭和17)年のもの。
(『興望館セツルメントと吉見静江』)
昭和19年
三月 地區強制疎開ニ伴ヒ出征母子及幼児學童ノ爲メ沓掛學荘ヲ改造シ冬期使用設備ヲ施シ疎開ノ家ヲ開設ス(1944年度事業報告書)
3月30日、第1陣は子供3人(名簿によると7人)、大人3人(吉見館長、江口先生、高綱のおばさん)。
(『俺達 沓掛学荘』『学荘誕生物語』)
昭和20年
毎食の献立のほか、一般記事として玉音放送を聞いた決意「遠き将来に希望をかける」が書かれている。
8月15日の保育日誌
昭和22年
米国の民間団体「ララ」(LARA:Licensed Agencies for Relief in Asia)による援助物資(食糧)による食事の風景。
ララから送られた食糧で食事
昭和23年
6月10日、長野県知事より「指令23号児第208 号」をもって認可。6月26日、東京都民生局より別途指令書(第13号)にて、1月1日付で児童福祉法第69条に拠る児童福祉施設(養護施設)として認可した、との通知あり。
認可指令書(東京都 第十三号)
昭和24年
慶応義塾大学の学生による社会奉仕団体ライチウス会は1940(昭和15)年の開設当初から来荘していた。
昭和25年~34年
1枚目
左より田代職員、國又静主任、奥井職員、國又貞子職員、根岸(旧姓 宮平)職員、本館の前にて、1954(昭和29)年の4月か5月。
写真提供:根岸順子
2枚目
森みちから来て国道18 号線にでる手前の場所。現在は右手に軽井沢病院。
写真提供:小宮登喜夫
昭和35年~44年
裏山を滑る子どもたち
写真提供:根岸順子
昭和45年~54年
そりとサンタクロースとプレゼント
昭和55年~64年
平成1年
新任職員は和服を着ることが慣例だった。
平成2年~11年
卒業生からなる「エキセントリック・ブルースバンド」による演奏と熱唱する野原館長。
平成12年~21年
卒業する子どものために皆で歌を披露した。
平成22年~31年
令和1年
小学生は海水浴、スイカはどこだ。新潟県糸魚川市の能生海岸にて。
Interview
#卒業生
野口 芳枝
#卒業生
小宮 登喜夫
#元職員
根岸 順子
#元職員
町田 玲子
#元職員
高橋 信敏
#元職員
瀬沼 保江
Logo
T.M.さん(高2)
80周年ロゴのコンセプト
私達が住む沓掛学荘は、長野県軽井沢にあり、とても自然が豊かなところです。緑に囲まれた中で生活していることから「森」、仲間や職員と過ごす賑やかな毎日をイメージして「家」。
このふたつは、学荘をよく表していると感じたため、デザインに取り入れました。
S.M.さん(中2)
F.K.さん(小6)
Interview
#卒業生
「疎開の家」のおもいで
野口 芳枝
興望館の向かいに自宅のある野口直一・つる夫妻の三女として生まれる。父・直一氏は、副町会長として吉見館長に協力した。兄・秀雄氏も興望館監事を務めた。
1944(昭和19)年夏、国民学校5年生のときに軽井沢に行きました(記録では同年7月~昭和20年10月末日)。興望館の保育園には通っていませんでしたが、親が職員を知っていて疎開の話を聞き、近所の尾崎さんと薬局の男の子が行くというので、その2人と仲が良かったから、行かせたようです。
学荘では、6畳8畳くらいの部屋で、低学年の子ども何人かと一緒に暮らしました。年上だったので「ご飯の支度をしてください」と言われて、食堂に行って箸を揃えた記憶があります。
夕方になると男の子たちが「汽車、見に行くよ」と言うので、国道(18号線)の手前の木のところで、手を繋いで見ていました。すると「これに乗ると東京に帰れるんだ」と言って、泣くのです。でも私は全然泣かない人でした。
山羊の乳をもらいに、一升瓶を持って女の子2、3人を連れて、湯川の橋を渡った神社の近くにある草地に行った記憶があります。乳が足りないので貰いに行ったのでしょうね。あるとき飼っていた「兎がいなくなった」と話したら、男の子が「食べちゃったよ」と言っていたこともありました。
1945(昭和20)年の正月に、確か庄屋の土屋さんのところで、安倍川もちを御馳走になりました。東京では見たこともない大きさでした。それから土屋さんか雨宮さんかはっきりしませんけれど、庭に池があって、擦り切れている長靴でスケートをしましたね。
その年3月の東京大空襲で下の姉も軽井沢に来ました。それで、沓掛から(学荘の第2施設として借りた明星学園の)追分に移って、そこから国民学校の分校に通いました。上の姉とその赤ちゃん、下の姉、私で一部屋を借りて暮らしました。鉄道隊にいた兄が、部下が帰省の折など、乾パンやスケソウダラなどの食料を運ばせて、差し入れてくれました。
8月15日は碓氷峠の見晴台から帰ってきたら、職員の人たちが泣いていました。「どうしたの」と聞いたら「日本が負けた」と言われました。
記憶では、9月には曳舟小学校に戻っていたような気がします。
Interview
#卒業生
当事者の語る「子どもの生活」
小宮 登喜夫
1949(昭和24)年生まれ、7歳から中学校卒業まで学荘で暮らす。その後、東京で就職し卒業生の集まりである「くるみ会」でバザー活動を行なうなど卒業生を取りまとめる役割をしている。
朝は6時に起きて、6時半から体操。朝食の前後に薪割り。中学生だと十把ほど割る。それから学校、帰ってきて遊んでいた。おやつがあって、お風呂は夕御飯前だった。食後、高学年は適当に勉強。テレビもないし娯楽がないから9時ぐらいには寝ていた。昼間、相当動いているから、すぐ寝てしまう。
食事は出たものを食べていた。鯨が出ると「肉だ、肉だ」と騒いでいた。東京へ出るまで本当の肉は知らなかった。
炊事も風呂も燃料は薪。年齢が上がってくると、風呂当番、釜当番があった。風呂当番は時間も長くて大変だった。でも、風呂番をやりながら栗や胡桃を焼いて食べる楽しみがあった。
木の実や果物を採りにいった。裏山は自分たちの庭だから、季節でどこに何があるかわかっていた。栗やアケビ、胡桃がいっぱい採れた。各自、専用袋があって、それに入れていた。それぞれ縄張りがあって、子どもながらに場所は教えない。先輩から「他の子には教えるなよ」と言われて引き継いだ。
遊びに関しては、本当に自由だった。本館の前でボールを使った遊び、缶けり、かけっこ、外を走るのが多かった。2班か3班に分かれて、リレー形式で競争した。「やるぞ」と言ったら、みんなわーっと集まった。だから、学荘の外まで遊びに行く必要はなかった。
プールがあって、これが深かった。常に満水で、手前は浅く奥へ行くと飛び込みもできるくらい。川の水を引き入れていて、入れ替えたときはすごく冷たかった。からだが冷えると、周りのコンクリートの上で腹ばいになって甲羅干し。職員が立ち会っているわけではなく、子どもだけで遊んでいた。
山羊や鶏の世話をしていた。畑仕事もした。一番大変だったのは、トイレのくみ取り、それを畑に撒いた。本格的になったのは職員の宮平さんが来てから。トウモロコシ、ジャガイモなどをつくった。集会場は板敷き。食事、勉強、日曜礼拝、クリスマスなど常に集会場だった。日曜礼拝は牧師が来たときもあるし、旧道の聖パウロ教会までぞろぞろ歩いて行ったこともある。聖書をろくすっぽ読めないのを見て、一生懸命、説明してくれた。
Interview
#元職員
学荘のおもいで 職員としごと
根岸 順子(旧姓:宮平)
1938(昭和13)年、愛媛県宇和島生まれ。1959(昭和34)年、恵泉学園短期大学園芸生活科を卒業し、興望館に入職。沓掛学荘、興望館保育園、学童クラブで勤務する。1967(昭和41)年、興望館を退職。現在も毎年、新鮮な野菜を沓掛学荘に送っている。
恵泉学園短期大学を卒業して興望館に就職したのは、1959(昭和34)年です。その年に学荘で撮った写真があります(80年のあゆみ1950年参照)。左から明治学院大学を出た田代さん、主任の國又先生、日本女子大を出た奥井先生、國又先生の奥さまで職員でもあった貞子先生、私の5人です。定員25人でしたが実数は27人で、それを5人で運営していました。
当時は「施設長」という言い方はしていませんでした。國又先生は主任として事務のいろいろなことをなさっていました。子どもの世話から夏のキャンプのことまで、だから大変だったと思います。布団づくりもしていました。
学荘に就職したのは、園芸が好きで子どもも好きだったからです。そういう人が「恵泉にいませんか」と依頼があったようです。学荘で7年間、東京の興望館で1年間、働きました。残っている写真を見ると、カボチャやヒマワリ、椎茸などつくっていました。
お部屋では子ども6人を1人で見ていました。賄の人がいないので、朝食は私たちが5時に起きてつくり、お弁当が要るときはお稲荷さんなどをつくりました。ましてやお釜です。だから、夏のキャンプになると東京から応援の人が来ても大変でした。
館長の中村先生がいらしたときに泊まられる「大人部屋」というのがあって、その畳の部屋で集まりを持つのですが、私は一番に眠りこけてしまうのです。そうすると「もう終わりにしましょう」ということになってしまっていました。昼間は屋外で目いっぱい働いていたので、日誌を「出して」と言われても書くどころではない日がありました。
1960(昭和35)年、松代町の恵愛学園(現在の千曲市にある「恵愛」の前身)から子どもが来ましたが、誰がそうだったのかははっきり覚えていません。使っていた建物は、本館、もみの木、2階建てのかっこう、いまの別館です。別館は私がいるときに建ちました。かっこうには、國又先生の後任の高橋先生夫妻が2階、1階は中学生男子が生活していました。奥井先生は、もみの木に小さな男子を含む子ども5人と暮らしていました。
Interview
#元職員
「消しゴムで消したいことは一つもない」藤野先生のおもいで
町田 玲子
1954(昭和29)年渋谷区生まれ。軽井沢教会の日曜学校の際、藤野泉氏に誘われ、1981(昭和56)年入職、児童指導員として働く。クリスマス・ページェントの脚本を担当した。1989(平成元)年退職、退職後も学荘を支援。
「私は、消しゴムで消したいことなど人生で一つもない」。藤野先生の印象的な言葉です。勤め始めたころ聞いた言葉で、「そんなことがあるのか」「一体どういう人だろう」と思いました。
先生の施設運営の考えは、子どもと職員が一緒になって、施設の生活そのものを楽しく一つのものにつくりあげていくというものです。子どもを監視したり面倒を見たりではなくて、みんな仲間になっていたわり合いながら、偏見やいろいろな知恵で固まっている大人も、そうではなく創造的な生活づくりに加わっていく。それによって、特に仲間とのふれあいによって、子どもは癒やされていくというものでした。考え方の基底にはジゼラ・コノプカの『収容施設のグループワーク』がありました。
先生は東京に子どもが出ると、必ずおいしい店に連れていってくれました。また、自宅に卒業生や職員を集めて、さまざまな料理をつくって食事会をするのです。わっと集まって食べながら相談する。仲間をつくるのがお上手だった。先生の「私も仲間よ」という気持ちが、教えてもらっているのではなくて、つくりあげているという手応えを私たちに与えてくれたのです。それから、人の得意なところや才能を見つけて拾いあげ、良いところは伸ばそうとされる。そういうことのできる名人でした。
先生は子どもに柔軟に対応されていました。その子どもだけというときは、徹底的に愛情を注ぎこむ。子どもの状態を詳しくみている。じっくり話を聞く。児童相談所でも大問題になった女子が謹慎になったとき「町田さん、一緒に行って山荘で自炊して生活しなさい」と言われました。その子どものことを「いいな」とみんな言っているのです。他の子どもは不満がないわけではないけれど、でも先生だったら「うん、よし」と許してしまう。子どもは親や社会から見捨てられた感覚が尾を引いていますが、先生からは見捨てられないと思う。職員も勇気づけられます。
常に、真正面に向かって、仲間と生活をつくっていく先生の考え方、「消しゴムで消したいことは一つもない」の言葉が今も私にとって心の支えです。意味のないことは何一つない。キリスト者としての先生の言葉、やっとわかってきた次第です。
Interview
#元職員
施設長時代をふりかえって
高橋 信敏
1980(昭和55)年4月興望館入職。地域活動部に配属される。1993(平成5)年4月自立援助ホームのホーム長。1994(平成6)年4月学荘に異動。1995(平成7)年4月施設長。2000(平成12)年4月地域活動部に異動。2003(平成15)年4月保育部異動。2017(平成29)年3月退職。同4月嘱託として学童クラブ担当となる。
学荘に異動した1990年代後半は入所してくる子どもに大きな変化があった時期でした。家族がいながら家庭で暮らすことのできない子どもが増えていました。その結果、児童相談所が家族調整の必要性を強調するようになって、都外施設である学荘にとっては幼児や小学校低学年児の入所がなくなり定数割れが続きました。一方で、入ってくるのは小学校高学年児や中学生であるため、小さい時からいる子どもとの間で緊張関係が生じることもありました。
当時、職員は住み込みです。職員寮は古く、居住条件が良いとはいえませんでした。ライフ&ワークのバランスも大切にしたかったので、長くいる職員は通いにしたいと思いましたが、実現することはできませんでした。
その頃、グループホームの開設が求められていて見学もしましたが、本園との関係が難しいと感じ、現在ある建物を使って小舎制のようにできないかと考えました。建物の1階、2階それぞれにお勝手と居間があるように改造しました。各お部屋は入口が1つで、子どもが自分の部屋に行くには居間やその脇を通るようにしました。勝手に建物内小舎制と呼んでいました。
卒業生はいつ来ても歓迎されていました。特に正月になると大勢の卒業生が来ました。別館を根城に夜になると、飲酒、マージャンやトランプをして過ごしました。在籍していた時のことも話題になり、今だから言える話や武勇伝、恨み言なども語られました。中高生が顔を出すことがありましたが、そこは卒業生も心得ていました。翌日は卒業生が費用を持って学荘あげてボーリング大会です。そんな正月の過ごし方を今いる子ども達が見ている。卒業後、一人暮らしが多い卒業生にとって、帰ってくる場所があるということを自然と感じることのできるお正月だったと思います。
地域活動部のキャンプは学荘の敷地内で行なわれていました。学荘の職員にとっては負担にはなるけれど、学荘の子ども達も元々は東京の出身です。職員はキャンパーと仲良くなる意味を良く理解していたので、子ども達をキャンプに送り出してくれたり、無理難題も聞いてくれたりしました。中高生は小学生キャンプのボランティアとして参加し、東京の大学生リーダーと仲良くなり、卒業後の東京での生活を支える一助になっていたと思います。
Interview
#元職員
藤野先生の「生活の中の治療」と職員のしごと
瀬沼 保江
1987(昭和62)年入職、児童指導員として17年間勤務。主にフリー職員として子どもに関わり、会計事務も担当する。1997(平成9)年より主任を務める。2004(平成16)年退職。2007(平成19)年、再入職し東京本部で勤務。
私は指導員でしたが会計も担当していました。当時、地元の大学に通う卒業生がいて、藤野先生が「ちょっと助けてあげて」と、藤野先生と彼と3人で徹夜を何度もしました。
お勝手当番の日は大変でした。前夜に仕込みをして、朝食を準備しながら、高校生が電車に間に合うようにお弁当をつくって持たせます。そして、お昼のメニューを考え買物をして、お昼をつくるのです。職員は一緒にお昼を食べて、そこからは自由です。4時前に子どもが帰ってくるのですが、藤野先生が「『お帰り』と言って迎えてあげて」と、お部屋でお出迎えをしました。夜は泊りの職員が各部屋に1人ずつ泊まります。子どもが10時で寝てくれたらいいけれど、大きい子どもは起きていることもありました。当番でない職員は寮の自室で泊まっていました。夏には関係者に職員寮の一部を開放して、宿泊費を取って泊っていただいていました。その稼いだお金で子どもをディズニーランドに連れて行ったこともあります。
藤野先生が日課を外す前は、ラジオ体操で叩き起こされ、お掃除があって、それからご飯でしたから冷たくなってしまっていたといいます。私が就職したのは日課がなくなったあとですが、子どもは日課がなくなっていち早く順応できたようです。しかし「大人が次、何していいか分からなかった」と藤野先生がよく言っていました。また、普通の生活は子どもに則して、母親や父親の声掛けで1日が回っていくのに「それが大人にはできなかった」とも言っていました。
藤野先生は「一般社会は本音と建前があるけれど、興望館ではそれは許さないから、本音でやってちょうだい」と言われていました。「どこの家の子どもも当然受けられる愛情、教育、自由、とにかく当たり前の生活を提供したい」とも言っていました。職員には「ここにいる間は、愛する人と一緒にいる空間を創り出してちょうだい。自分の愛する人のためだったら、お部屋を綺麗にして、お花を飾ろうと考えるでしょう。それと同じことを子どもに数年間でいいからしてください」「子どもと当たり前の生活をする中で、痛めつけられてきた子どもの傷を癒やすのよ。癒やしてくれるのは生活でなければできないのよ」と言って「生活の中の治療」を大切にしていました。