Beginning

興望館のはじまり

興望館は、1919(大正8)年1月に全国基督教婦人矯風会関東部会外人部会の女性たちによって設立が計画されました。
社会学者ジョン・マール・デビスが、日本のスラム地域として東京市本所区松倉町(現在の墨田区)の悲惨な状況を報告し、
乳幼児の死亡率が非常に高い現実を語ったことがきっかけでした。

この話を聞いた女性たちは、最も困窮している人々を救済しようと決意しました。
当時、松倉町は工場が集中する地域で、労働者の低賃金や地方から移住した家族の貧困が深刻でした。

4月の会合で救済活動を計画し、8つの委員会を組織して準備を開始。
10月には松倉町に土地を借り、翌年には家庭を訪問し活動の説明とともに生活調査を行い、夏には藁屋根の下で保育を開設しました。
10月には4棟が建つ土地を購入し、施設を建設。施設は矯風会の久布白落実によって「興望館」と名づけられました。

なかでもこの活動を支えた中心人物の一人、I・S・ブラックモアは理事や財務担当として活躍。
特に、1923年5月の台風や9月の関東大震災による建物被害を受けた際には、
資金の調達のみならず私財を投じて復興に尽力し、「永遠に称賛されるべき一人」とされています。

Kobokan

興望館びと

吉見 静江

興望館のセツルメント活動を定着、発展させた吉見静江。その生い立ち、興望館へ就職した経緯と実績、戦後の日本の児童福祉の一翼を担った姿を概観する。

1897(明治30)年、東京府日暮里に生まれ、幼少時に実母を亡くし叔母夫婦の養女となりました。学生時代から教会に通い、日本女子大学校英文科を卒業後、富山県立女子師範学校で働きました。その後、日本語教師として宣教師たちと出会い、興望館の活動を知り業務主任となるべくニューヨークのスクール・オブ・ソーシャルワークで学びました。

1929(昭和4)年に帰国し、興望館の主任に就任。保育園の運営では、保育だけでなく母親向けの育児相談や地域の保健衛生支援、学童保育の先駆けとなる活動を展開しました。

戦後の1946(昭和21)年には日本社会事業協会理事として孤児支援活動に関与。翌年、厚生省の児童福祉法起草に携わり、保育課長に就任しました。1959(昭和34)年には厚生省を退官し、自身が設立に関与した虚弱児施設「茅ヶ崎学園」の園長として子どもたちと生活を共にしました。1972(昭和47)年、74歳で亡くなるまで、福祉と子ども支援に尽力した生涯でした。

Gakuso

学荘びと

藤野 泉

1927(昭和2)年生まれ。1949(昭和24)年、学荘に保母として入職。翌年、病気療養のため退職。1953(昭和28)年、再入職し、その後「さざんか」を担当する。1973(昭和48)年より施設長を三度(みたび)務め、1995(平成7)年退職。

藤野先生の人柄・思想・はたらき
藤野先生は、自由で天真爛漫な性格とユーモアを持ち、子どもたちに対する深い理解と共感を示した人物です。

どんな子どもともよく通じ合い、拒絶する者はほとんどいませんでした。子どもとの関わりを喜びとしていた先生は、助けが必要なときに的確に手を差し伸べ、子どもたちの気持ちに寄り添う姿勢を大切にしました。
その根底にはキリスト教への信頼と、子どもの健全さを信じる価値観がありました。

藤野先生は、施設長を3度務めています。1973(昭和48)年と1979(昭和54)年には短期間のリリーフ的役割を果たし、1986(昭和61)年には本格的に施設運営を担いました。この期間、ジゼラ・コノプカの「収容施設のグループワーク」の考えを基に、子ども中心の支援を展開。日課や当番制を廃止し、個別的な受容を重視した「生活の中の治療」を実践しました。また、施設を小舎制へと移行させ、養護実践に新たな基盤を築き、多くの職員に影響を与えました。

History

80年のあゆみ

1940年

昭和15年

購入時

沓掛学荘のホール。
左手奥にマントルピース(壁につくりつけた装飾的な暖炉)が見える。
籐の椅子もあり、さながら当時の高級ホテルのロビーの雰囲気が漂う。

机に向かい執務しているのは吉見静江館長 (右から2人目)

本館見取り図
出典:1948(昭和23)年 沓掛学荘増改築工事添付書類

沓掛学荘キャンプ初年度

興望館では、8月1日より2期に分けて各10日間、幼児・保育園児・小学生など126人がキャンプを行なった。また、婦人矯風会青年部の女子専門学校生53人が7日間のキャンプを実施した。
写真は鬱蒼たる木々に埋もれた「森ノ小屋」。
(『興望館セツルメントと吉見静江』)

1941年

昭和16年

戦中のキャンプ

1941(昭和16)年は実施直前に文部省より学生生徒の集団行動を控える旨の通知が出され幼児8人のみで実施。
翌年は保育園34人、国民学校生徒63人に分かれ、1943(昭和18)年は虚弱児を対象として19人で実施。
写真は1942(昭和17)年のもの。
(『興望館セツルメントと吉見静江』)

1944年

昭和19年

疎開の家

三月 地區強制疎開ニ伴ヒ出征母子及幼児學童ノ爲メ沓掛學荘ヲ改造シ冬期使用設備ヲ施シ疎開ノ家ヲ開設ス(1944年度事業報告書)
3月30日、第1陣は子供3人(名簿によると7人)、大人3人(吉見館長、江口先生、高綱のおばさん)。
(『俺達 沓掛学荘』『学荘誕生物語』)

1945年

昭和20年

敗戦の日

毎食の献立のほか、一般記事として玉音放送を聞いた決意「遠き将来に希望をかける」が書かれている。

8月15日の保育日誌

1947年

昭和22年

ララ物資

米国の民間団体「ララ」(LARA:Licensed Agencies for Relief in Asia)による援助物資(食糧)による食事の風景。

ララから送られた食糧で食事

1948年

昭和23年

児童養護施設として認可

6月10日、長野県知事より「指令23号児第208 号」をもって認可。6月26日、東京都民生局より別途指令書(第13号)にて、1月1日付で児童福祉法第69条に拠る児童福祉施設(養護施設)として認可した、との通知あり。

認可指令書(東京都 第十三号)

1949年

昭和24年

慶応大学ライチウス会と
職員・子ども

慶応義塾大学の学生による社会奉仕団体ライチウス会は1940(昭和15)年の開設当初から来荘していた。

1950年

昭和25年~34年

勤務した職員/子どもの様子

1枚目
左より田代職員、國又静主任、奥井職員、國又貞子職員、根岸(旧姓 宮平)職員、本館の前にて、1954(昭和29)年の4月か5月。
写真提供:根岸順子

2枚目
森みちから来て国道18 号線にでる手前の場所。現在は右手に軽井沢病院。
写真提供:小宮登喜夫

1960年

昭和35年~44年

「そり遊び」1960年

裏山を滑る子どもたち
写真提供:根岸順子

1970年

昭和45年~54年

「クリスマス」1977年

そりとサンタクロースとプレゼント

1980年

昭和55年~64年
平成1年

「お正月」1988年

新任職員は和服を着ることが慣例だった。

1990年

平成2年~11年

エキセントリック・
ブルースバンド1993~1995年

卒業生からなる「エキセントリック・ブルースバンド」による演奏と熱唱する野原館長。

2000年

平成12年~21年

「ホームコンサート」2009年

卒業する子どものために皆で歌を披露した。

2010年

平成22年~31年
令和1年

「夏のお出かけ」2013年

小学生は海水浴、スイカはどこだ。新潟県糸魚川市の能生海岸にて。

Interview

卒業生・元職員
インタビュー

  • #卒業生

    「疎開の家」のおもいで

    野口 芳枝

  • #卒業生

    当事者の語る「子どもの生活」

    小宮 登喜夫

  • #元職員

    学荘のおもいで 職員としごと

    根岸 順子

  • #元職員

    「消しゴムで消したいことは一つもない」藤野先生のおもいで

    町田 玲子

  • #元職員

    施設長時代をふりかえって

    高橋 信敏

  • #元職員

    藤野先生の「生活の中の治療」と職員のしごと

    瀬沼 保江